ss. DIRTY?
午前4時、吐く息も凍る雲なしの早朝。俺はただひたすらに、月光に冷たく輝く大便器と格闘していた。
鼻を突くような臭いが充満する個室。じゃりじゃりちゃぷちゃぷと、ブラシと水の音だけが辺りを埋めている。
俺はトイレの清掃員じゃない。っていうか、まだ成人もしてないし社会人でもない。
俺はただの、一介の中学生に過ぎない。
そんな俺が、何故こんな時間に便器とサシで取っ組み合いを演じているのか?一般的な思考力を持つ人ならば、そう思うところだろう。俺だってそう思う。
しかもこのトイレは学校のトイレではなく、公園に設置された公衆トイレだ。俺には、ここを掃除しなければいけない道理などないはずであった。
ひとしきり汚れを洗い流した俺は、深々と溜め息をつきつつ個室の四方をぐるりと見回した。
正確に言うと、ここは部屋と呼べる場所ではない。
狭苦しいコンクリの壁に仕切られた空間に、全方位何処からどう見ても急造品の感が否めない体風の薄っぺらなベニヤ板の扉が、申し訳程度にくっ付けられているだけである。
この公園の公衆便所はたびたびリニューアル改修を受けることで有名な便所であるが、いつまで経ってもこの悪い意味で開放的なデザインは改善される様子は無い。
利用客といえば、よほど追い詰められた保育園児くらいなものだ。
……まぁ、昔は俺もその保育園児だったのだ。この公衆トイレには、良くも悪くも大変お世話になっているので、偉そうなことは言えない。
「……よし。」
むせ返りそうな臭いが立ち上ってくる水面に別れを告げて、腰を持ち上げた。
用が済んだのだから、もうこれ以上汚物の臭いなど嗅いでいたくない。
自分がまいた種とはいえ、汚れ仕事というのはどうにも気が進まん。何せこの寒さだしな。
綺麗な水が張られたバケツの水面に、ブラシを半ば投げ込むように突っ込むと、俺はベニヤの仕切りを蹴飛ばし気味に押しあけて脱出した。
外気はまだアンモニア臭がするものの、個室内よりはいくらかマシだ。SOS信号を発していた肺に、速やかに空気を送り込む。
はぁ、少し生き返った。やはり慣れないことはするものではないな。
俺は少し間をおいてから、また溜め息を吐いた。
それから、白衣のポケットの中から取り出した青いシールを台紙から外して、その接着面に小さな発信機を取り付けてから、そのままサンドイッチ式に挟み込むようにして洗面台の鏡の一番目立つところに張りつけた。
最後にバケツの水を用具入れの排水溝へとぶちまけて、借り物のブラシをつりさげる。これで、俺がするべき仕事は終わりだ。
夜の冷たい風が、水にぬれた俺の指を切り裂くように流れている。自分から進んでやっておいて難だが、冬場にこんなことはやるもんじゃない、としみじみ思った。良い子も悪い子も真似しないように。
俺は少々顔をゆがめながらも蛇口をひねった。流れ出てくる凍て突いた水に掌を浸して、汚水を洗い流した。
痛い。手が悴むとか、霜焼けになるとか、そういうレベルの話ではない。皮膚が壊死して流れ出してしまうかと思うような温度だった。
蛇口をさっきと逆に捻って水を止め、ハンカチで手をぬぐう。
ぬぐったところで掌を襲う痛みはやわらがず、たまらず息を指に吐きかけた。
夜の空気に白く染まった吐息は、月明かりに照らされて星空に消えて行く。
こんな寒空の下で慈善活動などしていたら、それはセンチにもなるものである。
次へ
ss. DIRTY?
やめる