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ぜんじろうについて語るスッドレ


1 : ヒトデ太郎 2018-10-13 17:52:38
ぜんじろう(1968年1月30日 - )は、日本のお笑いタレント。本名、金谷 善二郎(かなたに ぜんじろう)。

兵庫県姫路市出身。吉本興業所属。兵庫県立姫路南高等学校卒業、大阪芸術大学芸術学部デザイン学科中退。上岡龍太郎の弟子。

高校在学時、「親元から離れたい」という思いがあり、仕送りを貰いながら、独り暮らしのできる生活環境を望んで、大学進学を希望。大阪芸術大学デザイン学科を受験したが、高校時の成績は、451人中451番であった為、本人も合格するとは真剣に思っておらず、入試の日まで、大学がどこにあるのかも知らなかった。その為か、入試会場に遅刻する事になる。 花瓶を描くという実技試験の内容に対し、「なんかどうでもええわ。ようわからんし、適当に描いとこ」と花瓶のみならず、教室全体までも絵にして提出した。だが、この適当な行為が良い方向に転じる。

面接試験時、その絵を観た面接官教授から「なぜ、周りの風景も書いたのか?」と問われ、「見る物全てが芸術ですから」と、咄嗟に、適当なそれらしい言葉でかえした。 すると、その答えに納得した様子の教授から「いつから、絵を?」と尋ねられ、「中2の時スペインに行ってからです」という嘘で答えた。 教授は「私と同じだ!」と驚き、面接試験は合格となり、同校の入学試験に合格したという。

しかし、この口ひとつで勝ち取った大学合格も、同校を入学後、わずか2日で退学している。

本人のインタビューによると、「ハナからデザインに興味などないので、大学に通う気はなかったんです。大阪芸大が、あんな山の中にある事に驚きましたしね。親が大学に支払う授業料も欲しくなって、自分の懐に入るように細工してました。おかげで、仕送りも含めて、結構なお金を持ってたんです。親にバレるまで、悠々自適の生活でした。ヒドイ話ですけどね」との事である。

その悠々自適生活の時期、大阪にて友人と遊んでいた時、偶然上岡龍太郎を見かけたのだが、ぜんじろうとその友人は、上岡を浜村淳と間違えていた。 上岡をチラチラと見ながら「浜村淳や」「あれ? 浜村淳とちゃうんちゃうか?」などと言っているうちに、その様子を見かねた上岡の方から「君ら、僕と握手したいんか?」と声を掛けてきた。これが上岡との初めての出会いであった。

その後また偶然上岡に会う機会があり、「また君か。これは何かの縁やな」とお茶に誘われ、一緒にお茶を飲む事になる。極限の緊張の中、ウケ狙いで上岡に「弟子にして下さい」と言った所、上岡は「ええよ」と承諾した。 「断られるだろうと思って言ったのに、何も知らん僕みたいなのを受け入れてくれた。感激して、そのまま、本当に弟子にして頂いたんです」というのが、ぜんじろうの語る“上岡の弟子になった経緯”である。 

弟子修行時代を経て、吉本興業に所属。関西ローカルのテレビ番組『気分はジャマイカ』に出演。この当時は、自分を吉本にスカウトした人物からの指示でラッキーぜんじろうと名乗らされていた。

その後、ぜんじろうに改名し、同事務所の月亭かなめと漫才コンビかなめ・ぜんじろうを結成。コンビ結成から、わずか4日後に開催された1988年、第9回今宮子供えびすマンザイ新人コンクールに出場し、福笑い大賞を受賞した。

翌年の1989年、芸人の登竜門である第10回ABCお笑いグランプリに出場。優勝候補大本命だった130R(板尾創路・ほんこん)を押しのけて、最優秀新人賞を受賞し、突如、関西若手芸人のトップグループに位置した。 林正之助吉本興業会長が、この生放送の彼らの漫才を観て「エンタツ・アチャコの再来じゃ!」とまでに絶賛した。 1989年第24回上方漫才大賞 新人奨励賞を受賞。なお、この年度の上方漫才大賞受賞者はダウンタウンで、奨励賞はトミーズであった。更に、同年の第18回上方お笑い大賞では、銀賞を受賞するなど、芸人として大きく期待される存在となった。

だが、程なくして、かなめ・ぜんじろうは解散してしまう。解散理由は、急激に成功した反動のプレッシャーで、かなめが神経を疲労させた為であった。かくして、ぜんじろうは、再びピン芸人としての活動を開始する。

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