ごはんですよ!
「ごはんですよ。」
ふと目が覚めると、俺は眠る前と何も変わらない、自室のベッドの上で横になっていた。
古ぼけて黄ばみが目立つ天井の壁紙と、チカチカと震えるように明滅する蛍光灯が見えている。
見慣れた天井……とは言い難い。確か、まだ此処に越してきて、ひと月と経っていないはずだ。
……ただ、どこか懐かしい香りを感じる。
それは杞憂やデジャヴではなく、漫然とした事実だ。
何故なら、ここが幼少の時を過ごした俺の実家だからである。
……そのノスタルジックな香りには、確かに抵抗を感じる。時代遅れもいいところだ
だが不思議と、戻ってきたのだという妙な安心感が、その抵抗を打ち消してくれる。
誰にも文句は言わせない。俺は故郷に戻ってきた。
……その事実だけで、もうなんでもいいように思えるのだ。
体を起こして、辺りを見回す。
窓から差し込んでくる夕日に赤く染まった勉強机が、照れながらも優しく微笑んでくれている。
その表情が「おはよう」と優しく言ってくれているような気がして、嬉しかった。
……まぁ、勉強机に感情などあるはずがないので、それは俺の下らない感傷でしかないのではあるが。
兎に角、今日の暮れは、そんな余計な感動に身を興じる余裕があるほどに、スッキリとした目覚めであった。
休日の昼寝ほどのんびりと良い気分になれるものはない。……凄く気持ちがいい。
「ねぇ、聞いてますー?ごはんですよー?」
そんなことを考えていると、じれた母の声が、リビングのほうから飛んできた。
あぁ、そうだ。もうそんな時間なんだっけ。
ほんの2週間前は、夕飯の時間にはもう日は沈んでいたのに……。
……昔の俺には、こんな季節の移り目でさえ気にしている暇がなかったのか。
そう思うと、都会の空が狭いという言葉の意味も、分かる気がする。
俺は折りたたみ式なせいでギシギシとうるさいベッドから体を持ち上げると、近くに掛けておいていたジャケットを手にとって、軽く羽織った。
初夏の夕暮れ。窓の外に目をやると、見覚えの無い町並みの姿と、見覚えのある銀杏の大木がある。
早生まれの蝉の声が、まだ心細いほど小さく、銀杏の木のほうから聞こえてきていた。
久しぶりの実家。帰ってきた。幼少の頃に過ごして以来、ご無沙汰だった部屋。
これが故郷なのか。これが二度と戻るもんかと思っていた、あの故郷なのか。
なんて緩やかな時間の流れだろう。
東京に居たころは、毎日が忙しくて忙しくてしょうがなかったのに。
……こんなに心が休まる場所だったなんて、思っても居なかった。
「翔太ー?まだ寝てるのー?ごはんですよー?」
「あー、今行く!」
おっと、いつまでも待たせているといけない。
折角のご飯が冷める前に行かなければ。
俺は古びてボロボロの扉のドアノブをひねって、リビングのほうへと足を急がせた。
次へ
ごはんですよ!
やめる