◇煙(けぶり)薫(かを)る彼方(あなた)の都(みやこ)
時は1582年、4月8日。
京都の本能寺は焔に舞い狂っていた。
その中央にどかりと座る、男。紅い漆で塗られた、血塗れのような鎧を着、 弾 痕 が食い破った兜を着けている。
彼は織田信長。安土に城を構える、今日天下の覇王たる男である。
「哀れなる姿よの、織田」
黒こげた柱の奥から、ぬるりと、影が溶け出た。美しい色彩の鎧は、黒ずんでしまっているのだ。
こちらの男の名は光秀。
明智光秀である。
「光秀……貴様か」
息にかけた笑いと共に、信長は振り返る。
口元に浮かべた笑みは自嘲だろうか、さては覇王の慢心か。
彼の面に絶望の色は、ない。
ただ、少し切れ長の瞳の奥は、沈黙の炎を映していた。
「てっきり膿に討たれる前に、腹を割るものかと思っていたぞ。武士を忘れ、畜生へと落ちる気か?」
光秀は信長に火矢を射るが如く、言葉を投げ入れた。敵に討たれるのは武士の恥。ぬぐうことの出来ぬ汚点である。
それを黄泉の国へと持ち込むほど信長は下衆な男ではないと光秀は知っていた。……つまり、光秀の言わんとしている事と
は、自らに討たれる前に何故切腹しなかったのか? 意外だということなのだ。
だからこそ、光秀は慎重だった。
覇王は動じない。
この男は、恐ろしい鬼神なのだ。
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【小説】厄之神:挟之章「煙かをる彼方の都」【著:ジャトゥー】 s.1
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