「もう、帰ってきてから寝てばっかなんだから。」

「しょうがないだろー?環境に適応するにはそれ相応の時間がかかるんだよ。」


母は、俺が部屋から出てくるなり溜め息をついて、あからさまな愚痴をこぼした。
……恐らく、家に居るなら手伝いなさい、という言葉の裏返しなのだろう。

だが、俺は料理という物が大の苦手なのだ。手先は不器用だし、いろんな作業を並行してできない。
東京で一人暮らしだった頃は、コンビニで買った弁当やインスタント食品でまかなえていた。

別に料理ができなくても、金さえあれば一応食っていけたのだ。

……いや、その言い訳は、逃げだな。


俺は少しばつの悪そうな表情を作りながら、リビングに置かれた4人掛けの食卓の片隅に腰をおろした。
そこは俺がこの家を出る前まで、俺が食卓に付く時の定位置だった席だ。

だから俺は、特に何も考えず、無意識に近い感覚でその席を陣取っていた。
どうやら母も同じ考えだったらしい。

昔俺が使っていた箸が、俺の目の前の茶碗の上に置かれている。いっぱいに盛ったご飯茶碗の上に、きちんと真横にちょこんと乗せられているのだ。

……その光景を見て、俺は思わず涙がこぼれそうになった。

幸せな家庭だったのだな。ここは。

暖かい家庭だったのだな。ここは。

いつも笑顔があふれてて。お父さんが居て、お母さんが居て、妹が居て。

理想的な家庭じゃないか。

俺はなんて愚かしいことをしたんだろう。こんな幸せを手放してしまうなんて。


「翔太?どうしたの?」

「ううん。なんでもない……頂きます。」

気がつくと俺は、必死に顔面に力を入れて、泣きそうになるのをこらえていた。
……食卓の上には、どうにも好きになれない海苔の佃煮の瓶詰が置かれている。

いつものごはん。それだけの、普通の光景が、今の俺にはストレートに突き刺さっていた。

こんなに温かく、俺を受け入れてくれる場所があったなんて。

俺は知らなかった。


「……泣いてるの?」

「泣いてない……!」

俺は、ただ黙々と、おかずの肉野菜炒めに箸を伸ばしていた。
母の手製のニンニク醤油が、甘いタマネギの味と絡み合っている。

何代もDNAに刻まれてきた味なのではないだろうかと思うほど、懐かしくて、美味しい。

これをおふくろの味と言うのだろうか。

しょっぱくて、甘くて、ちょっと辛い。

作った人の人相が、そっくりそのまま味に出てるような。

とても温かくて、俺があっちでどんな色に染まったのかとか、俺がどんな気持ちで帰ってきたのかとか、

「そんなのどうでもいいわよ」とでも言わんばかりの、口いっぱいに広がる優しいうまみが、最高に感動的だった。

俺は、赤くなっているであろう鼻を、なるべく音をたてないように啜った。
……どんなに格好悪くても、やっぱり親には素直になんてなれなかった。

なのに感謝の気持ちばっかりが、俺の脳裏に浮かんできて。

喉のあたりまで浮かんでは沈んでいき、なんとかただ一言、小さく紡ぎだせたのは

「美味いよ……母さん。」

の、外の蝉の小さな声にもかき消されそうな、微細で素朴な感想の一つだけだった。

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ごはんですよ! s.1
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